
山下 奉文
山下 奉文(やました ともゆき、1885年(明治18年)11月8日 – 1946年(昭和21年)2月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将、位階勲等は従三位勲一等功三級。
高知県出身。陸士18期・陸大28期恩賜。太平洋戦争の劈頭、第25軍司令官として英領マレーとシンガポールを攻略した武功、「マレーの虎」の異名で知られる。
太平洋戦争緒戦のシンガポール攻略時に「イエスかノーか」と強圧的に降伏交渉を行ったと言われるが、実際は「降伏する意思があるかどうかをまず伝えて欲しい」という趣旨を、菱刈隆文の通訳が分からないことに苛立って放った言葉であり、これが新聞等で脚色されたと山下は日記で書いていた。
話が一人歩きしていることに対し山下本人は気にしていたようで、「敗戦の将を恫喝するようなことができるか」と否定したという。また、情報参謀として同席し、菱刈隆文に代わって通訳を行った杉田一次も含めて全員この出来事を否定している。
この時の交渉を撮影した映像は、山下の迫力に満ちた表情と、パーシバルがしきりに目を瞬かせるのが印象的である。これは交渉を行った部屋が暗かったため、撮影フィルムの回転速度を落とした結果、通常再生でも早回しのようになったためである。
処刑前に教誨師の森田正覚に日本人へ向けた遺言を残した。彼が最後に伝えたかったことは、戦時中の彼の行いに対する自責の念と自由を尊び平和を追求する新しい日本に対する理想であった。
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